アル・ゴアが楽しく繰り広げる、ワールド環境お勉強ツアーが、この程、UKでも行なわれる御様子で、其処に、何故か、サー・アレックス・ファーガソンにも、セミナー参加のお知らせが届いたと言うことだが。彼に、環境問題?試合後、毎回、一度ぐらい温度を上昇させている、お方だと思うのですが?(笑)
素人相手に、前半戦まで、0-0だった、イングランド代表。マクラーレン監督の解任論が英国のメディアを賑わす。サポーターの間には、ベッカムを出せとまで言わせる始末。それは、幾等なんでもないだろう?(笑)挙句に、最終的には、3点差で勝ったけど、そんな相手に、勝って、選手の意気込みを感じたと、記者会見で、意気揚揚と言われても、そんなソープオペラ聞きたくないと、書く、記者の荒れ気味にも少し笑えた。
英国の日曜日の大衆紙(ニュースオブザワールド紙)は、タイトルを、ISRA-HELLとして、スタジアムで使われた、イスラエル代表サポの垂れ幕を、そのまま引用。申し訳なさそうに、ブラジル人監督に、断られた後に、仕方なくなった、マクラーレン率いる、代表の不甲斐無さは、タレント軍団と一部では賞賛される代表の選手にとっては、悲劇以上に何物でもない。DF、リオ・ファーディナンドは、代表でのモチベーションは多分にあると、お金の見返りが期待できない、代表仕事は、どうせモチベーションが出ないんでしょう?と、言う投げ掛けに、必死に弁解している姿は、些か滑稽だ。スティーブン・ジェラードの、決定不足は、FWだけの問題ではない。攻撃的な決定力をクラブで発揮しているタレントMFが、代表では不甲斐無い事も、責められても良いはずだと発言。
タレント軍団と言うことが、問題であって、チームプレーには、些かそれが障害なのは、早く気付くべきで、そのタレントと言う、少し誇張表現も、怪しい物なのではあるが。(笑)
所で、何時になったら、熟した果実が食べれるのか?早くしないと、腐って落ちてしまうよ。
英語「Three lions」イングランド代表のエンブレムに刻まれた三匹の獅子に対して、イングランド代表を表すときに使われる。
栄光の後の忘れ去られた時間
ドイツ戦で、ハットトリックを達成*1したイングランド代表のストライカーの歴史を遡れば、イングランド代表が地元開催で劇的な優勝を飾って幕を閉じた、WCイングランド大会決勝、西ドイツ戦まで遡ることになる。
この試合で、Kenneth Wolstenholme のあまりにも有名なセリフ、『They think it's all over』の絶叫が生まれ、イングランド代表の黄金期が始まると誰もが確信した。しかし、70年代のイングランド代表は、メキシコ大会では、準々決勝まで勝ち残るが、皮肉にも後に彼等の栄光への道を度々閉ざす、宿敵ドイツ相手に苦杯を演じて、敗退。また、ヨハンクライフを中心に“トータルフットボール”と言う哲学を提唱する“オレンジ軍団”の、“フットボール革命”でわいた、74年の西ドイツWCには、“道化師”と言われた、GK、Jan Tomazewskiを擁して、鉄壁なDFを誇った、東欧の伏兵ポーランドに出場権を奪われる形で、苦杯を演じることになる。その後、66年の優勝監督で、サーの称号を後に受けた、Alf Ramseyの選手起用への世間の不満が囁かれる中、11年にも渡る彼の長期政権の終焉をみるのも、そんなに遅くはなかった。78年の当時の軍事政権化で行なわれた、アルゼンチン大会は、大会前から“プロパガンダ”としての意味合いが強いと、国際社会からの批判を浴びながら、劇的に勝ち抜いた(八百長疑惑も含み)、地元のアルゼンチンが、家族との時間を大事にしたいと言う(これも、適当な口実だったと噂されているが)、気まぐれな天才のいないオレンジ軍団を破り、見事に優勝を飾るが、其の一方、イングランド代表は、偉大なAlf Ramseyの引退後の監督人事の混乱がグランドに飛び火した形で、予選の初戦でイタリア相手に躓き、出場を逃す。こうして、70年代のイングランド代表は、“眠れぬ獅子”のごとく、60年代の遺産を抱えたまま、長い冬眠の時期に入ってしまっていたのであった。
微かな希望が見えた80年代〜90年代
82年のスペイン大会は、“出場枠の増加の恩恵”(16から24)を受け、久し振りの大会復帰となったが、予選グループ4での1位通過を喜ぶ暇もなく、予選第二ラウンドで、得点不足が露呈され、天敵のドイツにその道を明渡してしまうことになる。下らない紛争*2の余波の中で行なわれた、ペテン師の為のWC*3として後に語り継がれる、86年のWCメキシコ大会。ここでは、ミスター清潔、ギャリーリネカーが辛うじて大会の得点王になっただけで、ペテン師(ディエゴ・マラドーナ)の良いかませ犬としての役目の演じる、決して良い思い出でもなんでもなかった、イングランド代表。予選グループ4は、メディアから“最も退屈なグループ”だと言われる程、得点のない、ゼロのオンパレード。ベスト16への突破も怪しくなって来たイングランド代表は、グループ最終戦のポーランド戦で大きな選手の入れ替えを行ない、当時の監督だったボビー・ロブソンは、ここまで批判的だった、評論家の意見に迎合する。Beardsleyをミスター清潔の相棒に抜擢し、これが上手く機能。結果的に、リネカーの得点王に結びつくことになるが。90年のWC予選を無敗で堂々と出場を獲得した、イングランド代表。途中から参加したポールガスコインの創造性に微かな、古豪復活の臭いを感じながら、後、もう少しのところで、またも天敵のドイツにPKで苦杯を演じる。ポールガスコインの涙は、英国国民の魂に触れ、彼は一躍国民の英雄になったのだが。この成功で活気を取り戻したイングランド代表だが、ユーロ選手権では、予選グループ1の最下位。僅か1得点と言う、散々たる結果で、またもや沈滞ムード。後に、“Orange wall”(オレンジの壁?)として有名になる、94年のWC予選では、伏兵の北欧のノルウェーに苦杯を喫し、残りの出場枠をかけて、和蘭と戦うが、見事に撃破。また、沈滞の時代が続く。国民は誰も、代表の話をしなくなる。この沈滞ムードは、フットボールが“聖地”に帰って来るまで、姑くは続くしかなかったのであるが。
メディアによって生まれ変わった代表
Ozのメディア王が打上げた巨大な衛星が、イングランド代表の運命を変える物になるとは、当時誰が考えたであろうか?この衛星テレビ局がもたらした、莫大なTV放送権料は、80年代から頻繁に起こるようになっていた、“老朽化したグランド”での事故などを解決するべく、整備する資金に使われ、度々、海外の裕福なクラブチームに移籍する有名選手の国内流失を防ぐ防波堤を作る、資金も、クラブチーム流れるようになった。この“商業的フットボール改革”は、Euro96での成功で、悪名高き“テラス席”でのフーリガンなどの80年代の汚点を、世界に向けて払拭する絶好の機会を得た。その後、クラブチームには、“海外からお金を求めた”有名選手が集まるようになる。リーグでの“国際化”は、代表チームにとって、母国選手のポジションが奪われる弊害を危惧する、マイナス的な考え方も起こるが、“競争力の向上”により、代表選手の強化に繋がると、プラスの面を強調する人々が増えつつあるのも確かなこと。この当時から、後に、今までのイングランドでは考えつかない、“外国人代表監督”を容認する流れを作っていたのかもしれない。
オリンピックスタジアムでの、ホイッスルが鳴り終わった後、国民は、イングランド復活を感じていたに違いない。彼等は心の中で、『They think it's all over』と、口ずさんでいたかもしれない。しかし、この前と違うことは、彼等は過去の失敗から学び、他国から学習することを学んだ。フットボールの母国が、古臭いプライドを捨てた瞬間に与えられた、“一種の御褒美”だったのかもしれない。また、それは、クライフの幻想とロマンチックに浸る、オレンジ軍団の非現実主義の崩壊と対立する、超現実主義な、ビジネスライフな今の英国を象徴するものかもしれない。
ベッカム時代と、その後
その後、ベッカムの放った、彼の代表での唯一の華々しい功績と言える、予選最終選での、FKは、ギリシャ代表のゴールマウスを揺らし。彼は、一躍イングランド国民の英雄になった。しかし、極東で,行なわれたWCでは、その強固のDF*4で、スウェーデン人監督の限界が見え始めた時、イングランド国民は、次第に、エリクソン、ベッカムの超優雅主義の代表に懐疑論を展開し、好色なスウェーデン人監督のスキャンダルがタブロイド紙を賑わす日々が続き、フットボール以外での問題が浮かび上がる。
その後も、2002年WCを境に、英国のクラブチームの欧州での躍進とは、相反して、代表は、また、平凡な結果に終わってしまう日々が続き、この時期、彼等が生み出した物と言えば、ベッカムの妻(ビクトリア・ベッカム)並みの、派手な、フットボールの妻のライフスタイル、(俗に言う、WAGS)の存在だけで、グランドの外以上に、彼らは何も残していない。
1985年のヨーロピアンカップ決勝、リバプール対、ユベントス戦が行われた、ベルギーのヘイゼルスタジアムで、起こった、災害。
この惨事で、39人が亡くなっている。その殆どは、イタリア人で、ユーべサポであった。試合が始まる前、主催者のベルギー側は、ライバルサポを分断する為の、中立席を、地元のフットボールファンに開放すると、発表する。この決定は、闇チケットの横行を起こし、スタジアムを最悪な状態へと変化させる危険性を説いた。しかし、その心配も虚しく、試合は行われた。リバプールは、その一年前にローマでASローマのウルトラに散々にやられた複線を持っており、イタリアチームとの敵対心は、広がっている状態だった。
中立席の購入者の殆どは、闇チケットからのユーべサポであり、リバプールサポとユベントスサポを切り離すことは、失敗に終わった。当然、隣同士、いがみ合いが始まり、彼らを分散していた貧弱な金網は、その効果を発揮する訳もなく、リバプールサポの侵入を招く。ユーべサポ側へのライバルサポの乱入は、混乱を招き、逃げまとうユーべサポは、老朽化された、ブロック塀にその混乱を避ける一心に、登り始めると、無残にも、老朽化されてた塀は、崩れ落ちる運命にあり、その結果、下敷きになり、多くの犠牲者を出した。
この事件とは違い、後の、ヒルズボロの悲劇には、フーリガニズムとの直積的な関連性は、存在しない。しかし、ヘイゼルの悲劇は、スタジアムの老朽化、運営体制の不備と言う、点で、ヒルズボロの悲劇とは、類を同じくしている。
悲劇後
イタリア人被害者が多数出たことから、リバプールサポの責任が大きく追求されるなかで、英国のクラブの大陸でのプレーは、この事件後、5年間の間、禁止されることになる。そして、彼らには、もう2年間の禁止が追加されることになる。
英語「Gerge Best」60年代の華やかな英国を代表するかのような、マンチェスター・ユナイテッドを代表する選手。
代表での活躍は、北アイルランド出身の為に、WCなのでみることはできなかった。その華麗さ、ルックスをとって、「EL BEATLE」もう一人のビートルズとポルトガルのメディアに表された。
メディアミックス
BBC(英国国営放送)が丁度時期を同じくして、有名なフットボール番組、Match of the dayを放送する一年前、彼は17歳と言う若さで、マンチェスターユナイテッド?のトップチームでプレーすることになる。その当時、英国の街は、リバプールからのイカした4人グループ、ビートルズ全盛のポップな時代。彼の、そのルックスは、メディアとサブカルチャーのお気に入りの物になるのは、そう時間の掛かるものではなかった。
破滅人生
“I spent a lot of money on booze, birds and fast cars. The rest I just squandered," he famously said of his lifestyle.”
上の言葉が物語るように、彼の華やかなフットボール界でのプレーは、グランド外での破滅型ライフスタイルで、台無しの物にしてしまったことは、自他とも認める事実だ。酒、ナイトライフ、女が、彼のフットボール選手としては短すぎる、26歳でのピークを引き起こしたことは否定できない。このとき、既に彼は、極度のアルコール依存症に陥っていた。それが災いして、彼の選手としての、ヒットパレードは、短期間でその終焉を迎える。しかし、その短期間での活躍は、見事な物であった。ポルトガルの雄、ベンフィカを圧倒し、ヨーロピアンカップ(現、CL)を、英国勢で初めて獲得する、原動力になった時には、ポルトガルのメディアは彼のことを、もう一人のビートルとして、そのピッチでの鮮やかなビートを賞賛した。その後、彼の勢いは留まらず、後の数年で、タイトルと言うもの全てを獲得したように思える。その中でも、FAカップでの鮮やかな6ゴールは、ハイライトとも言える。
栄光の終焉
しかし、フットボール選手としての取り組み方が、監督との確執を呼び。彼が26歳の時、マンチェスターユナイテッド?を離れることは、同時に、彼のフットボール選手としての栄光の終焉を意味していた。
その後、クラブチームを転々とする、その時期は、彼のフットボールは、“サッカー”とその言葉を変えて、新大陸でのプレーを意味した。彼が再び母国に帰ってくるころには、もう、引退の声が近付いていたのは、仕方がない結果であった。
引退後
引退後も、彼に住み着いている、アルコールと言う悪魔は、猛威を振る。1984年には、飲酒運転、並びに、警察への暴行により2ヶ月の塀での生活を余儀なくされる。2002年の肝臓移植手術後の、アルコール依存症の再発のニュースは、NHSで移植手術を長期間待ち続けている国民の反感を買う。これと時期を同じくして、彼の年下の愛妻Alex(TVタレント)との仲も、冷め切っていたことは否定できない。後に、以前から別居生活をしていた、彼らの、正式の離婚が、2004年に発表され、僅か9年と言う結婚生活にピリオドを打った。
前妻(Angie)との間に生まれた息子、Calum Best は、英国で父親譲りのルックスを武器に、モデルとして以上に、父と同じ様にロンドンのナイトカルチャーで活躍中。最近、リアルTVに出演し、デビッドベッカム?との赤裸々の関係を暴露して、彼の個人秘書から一躍有名になった売名行為タレント、レベッカルーズさんと競演して、話題を呼んでいる。
最後の栄光
27日付けの大衆紙サンはトップページで、数週間前から集中治療室に入院している、マンチェスターユナイテッドの往年のスター、ジョージベスト(59歳)の様態が悪化していると報道。英国の各メディアも、前妻アレックスの証言を元に、彼の波乱に満ちた人生の終焉が近いことを伝えている。風邪のような病状から、腎臓炎に発展したと伝えらている今回の彼の入院は、当初順調に回復に向かっていると伝えられていた。しかし、現在、生命時装置を付けながら、酷い内出血に起こされていると彼の状態を伝える。アルコール多量摂取による、今回の腎臓炎の関連性は否定され、肝臓移植後の合併症を抑える為の、薬が、ウイルスの抵抗力を無くしてしまったと、報じている。
その後、死去。
英語「Bolton Wanderers」宣教師、Reverend J F Wright によって1874年の創設された、聖職者の為のチームが起源。
創設当時
彼らは、1888年に起こる、フットボールリーグ創設当時からの、伝統的なクラブチーム。当初、彼らのホームスタジアムがなかなか固定できなかった為に、Wanderers(さすらい人)として知られるようになった。1895年にようやく、元化学工場(漂白剤)跡地だった、Burnden Parkに本拠を構えることになる。このスタジアムは当時としてはモダンで、英国最初の照明設備を持つスタジアムとして、試合を行った。彼らの有名な、逸話として、Saturday Pieと言う物がある。1901年のFAcup決勝、再試合がBurnden Parkで開催されることが決まった時、観客にパイを配ることを決めた。その見込みは、当日の鉄道のストで、大幅に狂い、僅か、二千人程しか集まらなかった為、用意したパイを台無しにする羽目になったというもの。また、このスタジアムには、オーナーの意向で、自転車用トラックが隣接されていて、それを使って、フットボールの試合前に、自転車レースが行われていた。
このスタジアム前に使っていた、Pikes Lane は牧歌的なスタジアムで、丘に隣接して建設された為、収容人員に限りがあったこのスタジアムの、第二の観客席となったと言う逸話もある。
低迷する80年代
80年代は一時期、当時のリーグにおいて、4部リーグまで降格すると言う、チームとして危機的な状態が続く低迷期に差し掛かる。結局、財政難に苦しむクラブは、スタジアムの一部を売りさばき、その跡地には、スーパーマーケットが建設される。
リーボックスタジアム時代
晩年の老朽化は、避けることはできず、1997年に、チームが再びプレミアリーグに復帰すると同時に、新しいスタジアム(彼らのスポンサーの名前から)リーボックスタジアムに移ることになる。Burnden Parkが街の中に存在したスタジアム対して、リーボックは、郊外のショッピングモールに隣接する形で作られた、いかにも今風のスタジアムである為に、一部のファンからは不評を買っている。グランドが一望できる客室を備えたホテルがスタジアムに取り込まれる形で存在しており、その趣は、アメリカ的である。スタジアムツアーや、資料館も存在して、近代的なフットボールスタジアムの趣を放っている。
近年、他のビッグクラブのように、大物を大金で獲得する程の財政はなく、各国の旬の過ぎた有名選手を獲得する傾向にあり、それが彼らのクラブに上手く機能している。
ライバルは、同じ、グレーターマンチェスターに所属するマンチェスター・シティ。近年での彼らの活躍は、ファン心理によって、四強(アーセナル、マンチェスター・ユナイテッド、リバプール、チェルシー)の次に強いクラブだと言う自負を持っているようである。
英語「Hillsborough disaster」管理体制不備の為に、フットボールスタジアムで起こった、大量圧縮死。
概要
FAカップ準決勝、ノッティンガムフォーレスト相手にシェーフィールドウェンズデイのホームスタジアム、ヒルズボロでの試合で、起きた事件。この事故では、96人の命を奪った。
そもそも、ヒルズボロの悲劇は、其の当時の英国の老朽化された、スタジアム全てに起こっても、可笑しくなかったと言えるだろう。この事件後に行われた、Peter Taylorを中心とした、調査会では、二つの報告書が作成され、一つは事件の詳細であり、もう一つは、スタジアムに対しての厳しい基準を記述した、後に言われる、テイラーリポートがそれである。
最初の報告書は、遺族の感情を素直に反映させた、権力者に対しての批判で、労働者階級の心情を代弁した形となる。悲劇の原因は、貧弱なスタジアム管理であることを指摘し、交通状況の中で変化する観客の流れを把握できなかったことを指摘する。交通の不備の中、この日の客のスタジアムの流れは、波の様に一定時間に集中していた。そのような状況を全く想定していない、管理体制の不備は、落ち度と言っても言い過ぎではないと、強く指摘したのである。普段は、出口として使われている、Cゲートを、スタジアム入り口での、人の混乱を避ける為に、開放したことは、この事件を起こす最大の要因になった。Cゲートを開放するに当たって、有効な誘導処置も怠ったまま、客の流れは、その規則性を失うことになる。何も知らない、観客は、既に人で溢れかえっている、スタンドへと雪崩れ込む。その後は、述べるまでもない。しかし、その報告書も、最終局面に差し掛かると、その痛烈な批判性の勢いが衰えていたと指摘する。その報告書は、責任追及から、スタジアムの基準に重点が置かれ、被害者が求めていた、真実は、見落とされてしまったと言う感がしないでもない。
The Sun
この事件での、大衆紙The Sunのセンセーショナルな見出しは、後に論議を醸し出す
ことになる。
リバプールサポの暴虐振りを、紙面に綴ったその、購買意欲を駆り立たせる文面は、根拠のない虚偽の文字であり、後にこのタブロイドは、全くのジャーナリズムに反した行為であったと、謝罪を試みた。これは、リバプール出身のウェンルーニーが、このタブロイドに彼の生い立ちを独占取材させた時に起きた、リバプール市民に対しての地元スターの裏切り行為として、デイリーミラー系の地方紙、Liverpool Daily Post & Echoが筆頭になって起こした、彼に対しての強烈な非難に答える形で行われたものである。紙面を大々的に使って行われた一種の彼らなりの歩み寄りだったが、それら、一連のキャンペーンは彼らの永遠のライバル紙、ミラー系のLiverpool Daily Postが仕組んだ悪質な物だと、主張すると、リバプールサポの反応は些か消極的で、凡そ、15年程続く、不買運動は終わりを迎える気配はない。
事件当時、同じように、各メディアも、責任逃れを試みる、警察の虚偽の証言を、記事にしていた。それでは何故?The Sunがこれほどまでに、槍玉にあがったかの理由には、彼らの頑ななこの件に対しての姿勢と、その当時の、“THE TRUTH”と書かれた、見出しにあると言われている。
メディア
ロビーコルトレイン主演のドラマ、心理探偵フィッツ「英語題:Cracker」でのTO BE A
SOMEONEは、ヒルズボロの悲劇を題材にした、話題作。ローバートカーライルが演じる、アルビーキンセラ役は、この事件で亡くなった人の数(96人)だけ、殺人を行うことを計画する。最後に皮肉にも、The Sunの元関係者のオフィスで爆発が起きて、話は終わる。脚本家の、Jimmy McGovernは、後にこの事件を題材にした、ドキュメンタリードラマをITVで制作している。